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【東日本大震災3.11から明日で4年。一被災者としてあの日の経験を伝えます。

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*この記事は2015年3月10日15:26にFacebookに投稿したものをそのまま引用したものです。反響が大きかったのでこちらのブログでも載せました。

初めて震災について書きます。

仙台出身ということから「震災大丈夫だった?」とかよく聞かれます。でも自分自身、正直まだあの日のことが整理できていなかったし、伝えることが下手なので「特に被害はなかった。」といつも二つ返事でごまかしていました。

でも4年という歳月が経つ今、一被災者として何か残せるものがあればと思い立ち、あの日のことをここに記します。

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2011年3月11日。

僕は当時、進学校で有名な仙台第二高校の2年生でした。時期的にはいよいよ3年生が近づき受験シーズンが到来、だんだんと周りがピリピリしてくる時期。

その日は学校でちょうど模擬試験がありました。国語、英語、社会、理科と試験を終え、最後の数学のテストの時間が始まりました。

順調に問題を解いていき最後に大問があと一問解けば終わるというところまで来ました。

さあ、あと一息!

と思った瞬間、クラスの皆の携帯が一斉に鳴り始めたのです。地震警報でした。それから間もなく、今まで聞いたこともないようなおぞましすぎる巨大な地響きと共に地震がやって来ました。

それから校舎全体が体感的に縦にも横にも揺れ、すぐに机の下へ。

地震と地響きと悲鳴。

何が起こっているのか、
これは本当に地震なのか、
自分はここで死ぬんだな

とかもう意味がわからなくなり、まさに頭が真っ白になりました。

1分。いや多分もっと長くその状態が続き、やっと地震と地響きが去って行きました。

「校庭に避難しろー!」という先生の声で我に返り、ふっと周りを見渡しました。ガラスが割れた校舎、学校全体に流れる生徒の不安とどよめき。まさに悪夢でした。

校庭に出てみると空が淀んでいました。

皆の生存確認をしてからしばらく校庭で待機。幸いなことにその日は学校があったので生徒は全員その場で安否確認が取れました。

それから自分で家に帰れる人は各自家に帰り、沿岸地域で家が危ない、公共の交通機関が止まっていて一人では帰れないという人は学校に待機することになりました。

僕は比較的内陸部に住んでいて、さらに自転車で登校していたので一人で帰ることにしました。何より電波が通じないので、家族の安否確認が出来ない。家に帰り、まずは自分が生きているということを知らせなければ。その思いで自転車を走らせました。

途中、天候が大雪に変わりました。

そして信号が機能しないので警察の方が車、自転車、歩行者を誘導していました。しかしどの人も早くそこから抜け出したかったのか、まさにパニック状態で逆になかなか動かない。そして降り続く大雪。

この日二度目の悪夢を見ました。

安全な場所を探す人。
家に帰る人。
家族の安否を確認しようとする人。
家族の心配よりもまず職務を全うする人。

色んな人の「思い」がグチャグチャになっている感じがしました。

その喧騒の中、30分自転車を走らせなんとか家に帰りました。しかし、家には誰もいませんでした。

時刻は夕方。だんだんと日が落ち、電気もつかないので暗くなる中、ただ家族が戻ってくることを信じて待つしか出来ませんでした。

しばらくして一つ上の兄が帰ってきました。

兄は僕の安堵感をよそに、帰ってきてすぐに「純、買い出しに行くぞ。」と言い、車で近くのコンビニに僕を連れて行きました。そこにはすでに長蛇の列がありました。食料を貯めるために多くの人がコンビニに並んでいたのです。

皆さんは今までコンビニに人が並ぶという光景を見たことがあるでしょうか?それも外に列をなし、まるで遊園地のアトラクションを待つように。

僕は不安と恐怖を顔に浮かべた人々がコンビニに列をなすその光景を見た瞬間、

「平穏な日常なんて幻想なんだな」と思いました。

コンビニでカップラーメンやらお菓子やらを買い、家に戻りました。しばらくして父と母が帰ってきました。

安心した。その一言でした。

それから沿岸部に住んでいた長男夫婦とも連絡が取れました。

しかし安心もつかの間でした。ラジオからは地震の規模、津波のこと、被害状況が次第に伝わってきました。そして父の姉が僕の家に避難しに来ました。身一つで。

父の姉は津波の被害をもろに受けた地区に住んでいました。彼女の息子さん、つまり僕のいとこは前日夜勤でその日ずっと寝ていたため、津波に流されてしまったと言います(後日遺体を発見し死亡したことを確認しました)。

そしてその夜は、終わらない余震が続いたこと、これからどうなるのかという不安と恐怖で寝ることが出来ませんでした。

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これが3.11当日の僕の体験です。

3.11は本当に色々なことが起きました。もちろんこの後にも忘れられない様々な出来事が起きました。

しかし、この経験から何か学んだかと言われれば特にそんなことはありません。いつ死ぬかわからないから一瞬一瞬を大事にしようなんてことも思いません。こんなよくわからない気持ちで震災復興に携わろうとも思わなかったし、当時はなんだかみんな偽善者に見えて感謝の気持ちも出てきませんでした。それくらいあの日の出来事はグチャグチャだったし(適切な表現が思い浮かびません)、僕にとって無常であっけないものでした。完全に思考が止まる感覚です。

今こうやって書いたのは3.11があったという事実を伝えたかったからです。これを読んでくださった方に、だからどうしろというわけではありません。事実を伝えてどうなるかと言われてもわかりません。

『ただ、一人の被災者として3.11の経験を伝える。』

これは僕の、生き残った被災者としての使命だと自分自身で思っていました。いつか伝えなきゃいつか伝えなきゃとずっと心のどこかで思っていました。

あの日の出来事を伝えていくこと。忘れないこと。

それが生き残った一被災者としての僕が、ただできること。
そう思ったので今日ここに、他の投稿で埋まる前に記しました。
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最後まで読んで頂きありがとうございました。

引き続き安全第一で旅を続けます。

最後に、東日本大震災で亡くなった全ての方にご冥福をお祈り申し上げます。

宮城県仙台市出身。仙台第二高等学校2012年卒。
狭間純平