マレーシアの首都クアラルンプールで、人材紹介業をメイン事業とする桜リクルート社を経営している鵜子幸久さん。プライベートでは音楽をこよなく愛するバンドマンでもあります。突然のメールでの連絡にもかかわらず、快く対応して頂き、インタビューを引き受けてくださいました。
「月並だが、出会いを大切に生きてほしい」
その関西弁の混じった優しい口調で、インタビュー中に何度も口にした「出会いを大切にする」という言葉のルーツを、ご自身の経験を踏まえて紹介していきます。
桜リクルート社社長取締役、鵜子幸久さんとは?
鵜子幸久さんは、1964年京都にて生まれます。カリフォルニアで生まれた祖母の影響で、なんと幼少の頃から世界に飛び出すことを決めていたそうです。
1987年、京都産業大学外国語学部を卒業すると、株式会社リクルートに入社。ホットペッパー(無料タウン情報誌)の神戸・大阪エリアの創刊に携わり各地の初代編集長を務めます。38歳の時にリクルートを卒業し、マレーシア・クアラルンプールにて桜リクルート社(Agensi PekerjaanSRM Sdn.Bhd)を創業します。家族ごとマレーシアに移住し、「人材紹介業」・「ビジネスコンサル事業」・「日本の学校機関誘致事業」を通して、アジアと日本との架け橋になるべく現在活躍中です。
桜リクルート社社長取締役のほか、桜コンサルタント社取締役、サイバーライト社取締役を兼任しています。
*鵜子さんの詳しいプロフィールは記事最下部にあります。
鵜子さんの人生を変えた出会い−諸江修さんとの出会い
鵜子さんがマレーシアに来た最大のきっかけは、マレーシアで法務コンサルとして働いている諸江修さんとの運命の出会いだったといいます。鵜子さんは続けて、「諸江さんと出会わなかったら、今、僕はこうしてここで話してはいないよ」と嬉しそうに諸江さんとの出会いを話してくれました。
運命の神は、鵜子さんが当時働いていた大阪で2人を引き合わせます。リクルートで神戸・大阪を中心にタウン情報誌の編集長を務めていた鵜子さんは、自分の活動している世界が狭すぎることの反動で、仕事を退職する前から「僕はアジアに行きます。」と周りの上司や同僚や後輩に言いふらしていたそうです。そして、仕事の合間をぬって弾丸でアジアの各地に赴き、紹介してもらった人に会いに行ったり、現地調査を重ねました。そんな中、神戸にいた後輩が「僕の大学時代にアルバイトしていた塾の先輩がマレーシアで事業を興しているらしく、今たまたま日本にいるから会ってみませんか?」と連絡が来たそうです。
そして、大阪の梅田で諸江さんと鵜子さんは初めて顔を合わせます。当時は東南アジアはまだまだ発展途上国で、日本はどちらかと言うと東南アジアより中国に目が向いていた時代です。ましてや東南アジアの中でもマレーシアは距離的にも宗教的にもどこか地味な存在だったと鵜子さんは言います。そんな眼中になかったマレーシアでしたが、諸江さんの「マレーシアはイメージしづらいと思うから、1回まずは足を運んでみるといい。おそらく思っているのと全く違うから。」という言葉で、鵜子さんはマレーシアを初訪問します。そこで鵜子さんは衝撃を受けます。
「マレーシアは思った以上に都会だった。当時は既にツインタワーが立っていたのだけど、大阪にもあんな高い建物はなかった。今までは単一人種の国を回っていたけどここは違う。大げさに言えば、世界を渡り歩かなくても世界中からここに来てる。カザフスタン人やジンバブエ人など想像もつかないような国籍の人が、ここだったら普通にいる。ここは”one of them"の世界なんだ。」
そんな衝撃から鵜子さんは遂にマレーシア移住を決め、自ら事業を起こすことを決意します。
桜リクルートを一人で立ち上げた頃から、諸江さんは何かと手助けをしてくれたといいます。一緒にセミナーをやったり、諸江さんのリストから営業をさせてもらったり、まさに鵜子にとって諸江さんはマレーシアに来る際のきっかけでもあり、恩人かつメンターなのでした。
意味のない出会いもあるかも知れないけども、人生を変える出会いもある。
そういう意味で鵜子さんの人生はまさに出会いによって転換期を迎えています。
「色んな人に会うと、人生どうなるかわからないよほんとに。
月並みだけど出会いって大事にしなきゃいけない。これから先、意味のない出会いもあるかも知れないけども、人生を変える出会いもある。人生を変える出来事が起こりうるかもしれない。それは実体験として僕の人生が語っている。だからこそ、出会いを大切に生きてほしい。
よく、自分探しの旅って言うけれども、僕はそれは違うと思う。自分探しの旅じゃなくて、人間探し。人は人によって形成されるし、それが本当に人生の転換点になる。
だから、家にこもって、テレビやネットをしているだけでは変わることは出来ない。答えは簡単に見つからないかもしれないけども、一歩踏み出して色んな人に会う。話をする。これだけで当たりだよ。」
鵜子さんは現在、自身の会社を経営するかたわら、恩人の諸江さんと共に桜コンサルタントという会社で、日系企業の進出をサポートするビジネスコンサルタント業を行っています。
「これからはもっと手を広げて、マレーシアに日本の大学教育を誘致して、大学を作るという教育事業もしていきたいんだ。」
鵜子さんの常に前を向くその眼差しには、人を大切に、出会いを大切にする生き方そのものが映っている気がします。
インタビューを終えて
鵜子さんの生き方は素直にかっこよかった。鵜子さんの周りにいる人は、間違いなくみんな、鵜子さんを大切にしています。出会いを大切にするという鵜子さんの生き方を考えると、それはあたりまえのことかもしれません。しかし、一方で、僕たちはそんな、人を大切に、出会いを大切にというあたりまえのことを、本当に当たり前にできているでしょうか。
FacebookやTwitterなどのSNSやLINEなどのコミュニケーションツールが普及した今、その気になれば誰とでも出会える時代です。ということは、裏を返せば「出会いというものが希薄に捉えられている」、そんな時代でもあると思います。だからこそ、今一度、自分の中での出会いというものの捉え方を見直してみてはいかがでしょうか?
鵜子さんが言うように、色んな人に会うと人生どうなるか分かりません。どこでどう転ぶかわからないのです。もしかすると、今、自分の隣にいる人が将来の結婚相手になるかもしれないし、一緒に仕事をする仲間になるかもしれない。誰かが誰かに影響を与えて、そのまた誰かが他の誰かに影響を与えていく。これこそ、月並みだが、人は間違いなく一人では生きられない。だからこそ、一つの一つの出逢いに意味を見出し、人をもっと大切に生きて行きたい。インタビューの後はそんなことをふと思いました。
鵜子さん、今回は本当にインタビューを引き受けて下さりありがとうございました。
鵜子幸久 1964年京都にて生まれる。大正時代に曾祖父がカリフォルニア・サクラメントに移住のため渡米、その地で生まれた祖母を持った影響で、幼少のときより世界に飛び出すことを決める。 京都産業大学外国語学部卒。 1987年、株式会社リクルート入社。ホットペッパー(無料タウン情報誌)の神戸・大阪エリアの創刊に携わり各地の初代編集長を務める。同時に兵庫エフエムラジオ放送(Kiss-FM KOBE)の番組審議委員兼務。また地元関西のテレビやラジオ番組にナビゲーターとして出演。 38歳の時にリクルート卒業、人生後半の夢を実現する場所を探すためアジア全域22ケ国を回り尽くしたが、各採点項目で最も高得点がついたのがマレーシアで、最終的に2003年にクアラルンプールにて桜リクルート社(Agensi Pekerjaan SRM.Sdn.Bhd.)を創業。家族ごと当地に移住し、「人材紹介事業」・「ビジネスコンサル事業」・「日本の学校機関誘致事業」を通じて、アジアと日本との架け橋になるべく現在活躍中。 桜リクルート社社長取締役のほか、桜コンサルタント社取締役、サイバーライト社取締役を兼任。 2012年10月「週刊AERA」の”日本人子育て移住の激増”テーマ記事では現地識者・コメンテーターとしてマレーシアの教育風土の利点を解説。 2013年新春の「朝日新聞日曜版(GLOBE)」、NHK-BS1テレビ番組の「グローバル・ディベートWISDOM」では、浜矩子氏らとともに”日本の若者のアジア転職”についてのバックグラウンドを語った。2014年年頭のAERAでは「アジアで勝つ100人」に選ばれる。他にも日本ナンバーワンビジネスマッチングサイト「出島」の維新コラムで、毎月連載記事を執筆中。成長著しいマレーシアの生の情報を日本に発信している。 プライベートでは、酒と作曲とバンドでの楽器全般の演奏、ゴスペル・コーラス、アジア各国の民族音楽の収集など音楽をこよなく愛する。座右の銘は、『しなかった後悔よりは、してしまった後悔のほうがいい』 |